愛菜(まな)

 第1話 「よみがえる過去」

僕はいつものように、いつもの所に車を置いて、いつもの喫茶店に入った。

入り口でカウベルが音をたてて鳴った。乾いた音が乾いた心に気持ちがいい。

その音が聞きたくて今日もここにやってきた。

仕事とプライベートとの明確な区切りを、その音は感じさせてくれる。

感じたくなるほど、疲れていると、言ってもいいかもしれない。



常連というのは、いつも自分の場所を持っている。

妙なものだが、何故かその席でないと気に入らないという部分がある。

僕の場所は入ってすぐ左の窓際である。

この時間、その席が開いていないということはまずない。

そして、これもいつものようにラックから何冊かの雑誌を手に持って、僕は「自分の席」をめざした。

10時過ぎにやっと仕事から解放されて、ちょっとだけ軽くなった影が、僕の足音になって響いていた。

その女性は、「僕の席」でノートパソコンをたたいていた。

「ったく」

と心でつぶやきながら、一瞬立ち止まったのを気取られないように、

僕はその女性を眺めることの出来る席に座った。

きれいな人だった。

ときおりかきあげる長い髪には、軽いウエーブがかかっている。

20才前後だろうか。

くちびるがかすかに赤いことを除けば、化粧気が感じられない。

ほっそりとした知的な顔立ちだ。

コーヒーを口に運ぶ仕草がとても堂に入ってる。

かじった跡のあるリンゴのロゴマークが見えた。

ウインドウズ全盛の世にあって、68というCPUにこだわり続ける老舗メーカーの作った逸品だ。

おっと。このぐらいにしておこう。ナンパする趣味は僕にはない。

星は遠くから愛でるもので、手に入れるために人生をかけるほどの事はない。

やはり野に置けれんげ草だ。

つまらない言い訳だなと苦笑いをした。その瞬間、彼女と唐突に視線があった。

彼女は笑いを押し殺すようにこう言った。


「こんばんは。あなたの席をとってしまって、申し訳ありません」

え?僕は回りを見渡した。しかし、ほかに客はいない。

彼女は間違いなく僕に話しかけているのだ。


僕は狼狽した。心の中を読まれている?

それは、何年も前に出会ったある少女の事を思い出させた。叫ぶように僕は言った。

「君は、理緒(りお)のいったいなんなんだ」


第1話 完


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