愛菜(まな)

 第2話 「明日から吹く風」

「君は理緒のいったいなんなんだ」

 彼女はそれには答えず、静かに微笑んでこう言った。

「こちらに、お座りになりませんか?」

 ウエイトレスの視線が気になった。僕の注文はまだ空に浮いている。

でも、あえてこの席に座り続ける理由はない。

 なにより理緒の消息を知りたかった。

あれ以来、僕に与えられた理緒の情報はない。

この不思議な女性が、なんらかの関係者であることは間違いないのだ。

 僕はあの日の理緒を思い出していた。

風が吹いていた。それがどこから吹いてくる風なのかを、理緒が教えてくれたのだった。

そして理緒は消えてしまった。

 そう、まさしく消えたのだ。それ以外に表現するすべはないほどに、あっけなく。

理緒が消えた日を、昨日の様に思い出すことが出る。

幼年期に見た嵐の情景を、色あせることなくいつまでも覚えているのと同じだ。


 理緒は、ある初夏の日突然やってきた。14才と本人が語った。

それから僕の事を「パパ」と呼んだ。

 恋人・ほたるのこと、仕事のこと、家庭のこと。いろんな意味で僕は疲れていた。

やがて疲れは、飽和点を越えた溶液がこらえきれずに放出する結晶の様に、僕の回りを取り囲んでいった。

あの時ならそれが理緒でなくとも受け入れただろう。

 おぼれかけた者にとっては、わらでさえ福音となる。

それがつかまって見て始めてわかる「絶望」であったとしても。

 僕は、理緒に関するあらゆる詮索を放棄した。それにはいろんな理由がつけられる。

疲れていた。面倒だった。理緒がかわいかったから。妙な下心。

 でも今となっては、どれも違うとしかいいようがない。

出会った瞬間から、理緒は僕の一部だった。なくてはならないもの。

いままでなにかの拍子に失われていたものが、不意に戻ってきたような懐かしさ。

それがどうして拒否できるだろう。

 理緒は僕の事を知っていた。

そして、僕が言おうとすることでさえも、言語という手続きを経ることなく、理解した。

 そして3ヶ月後のあの日。

長くて暑い季節が終わり、澄んだ空気と夏の残り香の入り交じった土曜の夜。理緒は消えた。

強烈で、そしてとても悲しいメッセージだけを残して。

 その時初めて知らされたのだ。明日から吹いて来る風のことを。



 あれから3年が過ぎた。

その間に僕は恋人を失い、会社を辞め、いろんな意味で「ひとり」になり、そして30才になった。

 すこしはにかんだ様な笑顔を見せて、その人はこう言った。 「愛菜って言います。妹がお世話になりました」


第2話 完


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