|
愛菜(まな)
第4話 「森の住人」
3話までのお話
それはいつもの喫茶店で始まった。
その女性はノートパソコンをたたいていた。
彼女は愛菜と名乗った。そして理緒の姉だとも言った。
過ぎた過去のにがい想いがよみがえる。
でもそれは「僕」にとってなくてはならないターニングポイントだった。
僕は、新たな予感におびえながら、愛菜と暮らすことになった。
そして、三ヶ月が過ぎた。
*************************************************************
「止めて」 突然愛菜が叫んだ。
朝の4時。渋滞を避けて、ドライブに出かけた国道でのことだった。
前方に、一羽の鳥がたたずんでいた。
僕は愛菜の声に思わずブレーキに足をかけた。
しかし、車にひかれるようなまぬけな鳥なんてまずいない。
近づけば飛び立つだろうと、僕の車は減速したに過ぎなかった。
「だめ。ちゃんと止めて」
その語気の強さに僕はたじろいだ。
そして、タイヤが悲鳴をあげて止まったのは、鳥から1mほど手前のところだった。
「この時間帯でなかったら、大事故だぞ」
「だめなの。あの子はよけられない」
そう言って愛菜は飛び出して行った。僕はあわてて後ろを見た。
幸い、後続車はいない。
しかし、片側3車線ある国道のこの時間に、車を止めて道路に降りるなんて、自殺行為である。
非常停止灯を付けて僕も車を降りた。
その時隣の車線を、クラクションを鳴らしてランクルが駆け抜けていった。
急いだほうがよさそうだ。
ふいに鳥が飛び立った。なんでもなかったのかも知れない。
でも、愛菜はそこにしゃがみ込んだままだ。
早く車にと、僕は愛菜をせかした。
愛菜の手には、一羽の小鳥が乗せられていた。
小鳥を見る愛菜の目つきが尋常ではない。
さっき飛んだのは、どうやら親鳥だったらしい。
子供がいたから逃げられない、と愛菜は言ったのだ。
「ケガしてるの?」
「次の交差点で、左に曲がって。この子を、早く返してあげないと」
「獣医に持っていって、見てもらおうか?」
愛菜は静かに首を横にふった。僕には何がなんだかわからなかった。
「車に戻ろう。僕が持つよ」
その小鳥を受け取ろうと、手をさしのべた。
「だめ」
「え?」
「あなたの、いえ、人間の匂いがついたらこの子はもう戻れなくなる」
時間が流れを変えた。僕らはその中心にいるのだ。
こんな愛菜を見たのは始めてだった。
一緒に暮らして3ヶ月。僕は何を見ていたのだろう。
愛菜と幼鳥を乗せて次の信号で左折した。
止めて と今度はいつもの穏やかな声に戻って、言った。
愛菜は車を降りて、道路の脇にある小さな森の中に入っていった。
道があるようには見えなかったが、吸い込まれるようにその中に入っていった。
森。
と、今僕は言った。
この日本のどこに本当の森があるのだろう。
豊富な湿度と植物。そこに住む様々な虫たち。そしてそれを食べる鳥たち。
人に害なす虫も獣も、そこでは平等だ。
そこに、経済という不可思議なバケモノをもちこんだのは、人間だ。
地球が閉じた系であることも忘れ、バケモノは自己拡張を続ける。
閉じた系では、エネルギーの総和はかわらない。
ただ、使えないエネルギーが増えるのみだ。
それを、バケモノの言葉で「借金」と言うのではないか。
「先送り」と言うのではないか。
夜は終わろうとしている。もうすぐ見慣れた風景がやってくる。
でも僕はとても孤独だった。
たかが小鳥の命がそんなに大切なのだろうか。
僕らでさえなければ、いや、愛菜が乗ってさえいなければ、
あまりの数の多さにまぎれて振り返られることすらない、ありふれた風景の一つに過ぎなかったはずなのだ。
不思議な事に、おかしさがこみ上げて来た。僕は声を出して笑った。
それをどこか他の所にいる自分が聞いていた。
遠くで、オオルリの声がした。
コン。コン。
誰かが、助手席側のウインドウをたたいた。眠ってしまったらしい。
あわてて、ドアのロックをはずそうとして乗り出した時、その女性と目があった。
「こんなとこで寝てると、危ないですよ」
僕は窓を開けながら、その人に言った。
「人を待ってるんです」
「いつから?」
時計を見た。3時24分。
いったい、いつの3時なのだ。
「少なくとも、朝からずっとあなたはここにいるわよ」
「え?」
僕は回りを見回した。
車の流れも、景色も、太陽の位置も。
それは午後3時のものだった。
「私は、恵美。この近くに住んでるの。何度もクラクション鳴らす音が聞こえたんで、出てきたの」
風が流れを変えるには、ほんのちょっとの温度差があればいい。
でもそれは人智を超えた温度差だ。
この恵美との出会いが、僕と僕の未来との間に、とても大きな風を作ることになる。
ずっと先のことだけれど。
「かっこいい車ね。乗せてもらって、いい?」
僕は黙ってドアを開けた。
森の匂いが流れ込んできた。
こんにちわ、と改めて恵美が言った。
愛菜はまだ、帰らない。
第4話 完 |