名君

もう10年以上も前、鈴木健二が司会するNHKの歴史番組で、
誰かの特集の途中で保科正之の名前がちょっとだけ出たことがある。いみじくも、彼は言った。

 「保科正之という人がいます。名君です」
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名君ってなんだろう。

 甲子園球場には毎年「怪物」が現れ、ちょっと売れた新鋭ミュージシャンは「天才」と呼ばれ、
ちょっと変わった料理(決していおいしいわけではないくても)は「究極」と言われる。

 「名君」も、そんな大量生産される貧困なボキャブラリーのひとつとなっているのかもしれない。
人はどうしても自分(や自分の住む地域)にかかわりのある人を名君にしたがるらしい。

 多くの場合、「名君」は歴史上の人物(つまりすでに死んでいる)であるために、でっちあげるのは比較的簡単である。
特別なにもしなかった人ならだれでも名君になれる"素養"がある。

 その治世に橋を造れば名君であるし(それが軍事目的であったとしても)
飢饉の際に米倉を開いて救民すれば名君である(飢饉が起こるような政治をしていても)。

 だが、多くの人がかかわって検証し論議してきた歴史には、そういった意図的間違いは比較的少ないと、僕は思う。
逆に言えば、歴史のそうしたフィルターを通さずして、名君はあり得ないとも言えるわけである。

 保科正之の治世については、批判をする人はほぼいない。
冒頭で述べた鈴木健二の発言も、それをふまえてのことであろう。
徳川体制の碑を築いたこと、浪人問題の解決、殉職の禁止、江戸市内の治安維持・防火体制の構築など枚挙にいとまがない。

 だが、そんな箇条書きがあてにならないことは、誰もが知っている。
文字は人格を映さない。正之の偉大さはそんなことではない。
江戸幕府を強化するためだけの施政であったのなら、長い歴史が正之に名君の評価を与え続けることはない。
徳川吉宗が、現在では必ずしも名君の仲間入りをしていないことでもそれは証明できる。

 正之の政治の根底には「人民」があった。その目の先には、必ず人民の幸福を願う優しさがあった。

 明暦3年の振り袖火事のとき、正之が真っ先にしたのは難民の救済である。
鎮火した次の日にはもう炊き出しを行っている。
未曾有の大震災の際に、現地視察(救済ではない)に行くのに1週間もかかったどこかの総理大臣とはわけがちがう。
会津に移封になったとき、真っ先にした政策は、減税(年貢の軽減)と飢饉への備え(社倉)、悪習の追放(殉職の禁止)であった。

 これらは全て「人民」という概念なくして出てこない発想である。

 それはリンカーンが人民を唱えるより220年ほど早く、世界で初めて民衆が誕生したフランス革命からでさえ150年も先んじている。

 つまり。正之は先例に習うことなしに、「人民」という概念をもっていたことになる。

 時代は戦国の余韻なお残る江戸時代初期である。
忠誠心という言葉にも、下克上という言葉にでさえも、「人民」は参加しえてない。

 そういう時代に生まれた為政者が、その概念を持つに至ることを、奇跡と呼んでさしつかえがあるだろうか。

 それは現代においてさえ、困難であることを証明する人達がいる。
金正日は、国民の大多数が飢饉にあえいでいても関心を示している様子すらない。
イラクのフセインもかつては列強からアラブの国を取り返した英雄であったかもしれないが、今は単なる簒奪者としか見られていない。
ポル・ポト、ミロシェビッチ。絶対権力を握った人間のやることは、だいたいかの通りである。

 正之は、現代においてすら困難な「名君」を実践した先駆者と言っても過言ではあるまい。 
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「他国の例をもって、自らを処してはならない。我が藩はあくまで徳川家に忠誠を尽くせ。でなければ、私の子孫ではない」

 この正之の遺言(会津藩家訓14箇条の第1条)にはひとつの批判がある。

 つまりこの家訓が、幕末の会津藩を薩長連合(後の維新政府と言い換えることも出きるかもしれない)の標的にし、
事実上幕府の身代わりとして革命のエネルギー放出の場にしてしまった・・・という批判である。

 もちろん、そんな単純な話ではないにせよ、
京都守護職への就任を固持する松平容保(幕末期の会津藩主)を説得するのに、この家訓が使われたことは疑う余地もない。
また、正之の名を出されて、容保が断りきれるはずのないことも、同じである。

 結局、会津藩は幕末を平和に迎えることは出来なかった。
有名な白虎隊を始め、幕末の会津藩の悲劇は全て、正之の家訓に集約することが可能である。
「徳川家に忠誠を尽くせ」。その家訓を守って、会津藩は滅びた。

 だから。

 保科正之は、名君とは言えない、のだろうか。

 時代は強力な中央集権国家を求めていた。力と力で権力や富を奪い合う時代に、人々は疲れていた。
自分の命が無意味に脅かされないことを、痛切に願うようになっていた。

 その願いの上に、徳川幕府は成立した。
正之ならずとも、その永続が人々の幸せにつながることを信じることに、矛盾はない。

 名君は神様ではない。
200余年もの後に、幕府という制度が時代遅れになることなど想像が出来ないのは、
今の私たちに(リベラルな)民主主義以外の優れた制度を想像出来ないのと、同じことである。

 現代の感覚でもって、歴史を見てはならない。単純な正義感で歴史上の人物をはかってもならない。
歴史の判断は、歴史のみが行い得る。多くの人達の努力の証として。
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 余談になるけれど。

 自分の住む土地の過去の人をやたら名君や名士にしたてあげる人達がいる。
その底辺に潜むものを考えるにつけ、どうしても次のことを思い出さずにはいられない。

 合コンするのに自分の会社(または所属団体)の名刺を必要とする男達。また、それを集めて喜ぶ女達。

 軟派するのに所属大学をいちいち名乗る男達。その偏差値にむらがる女達。

 同じではないか、と思う。
自分に関係したなにかを権威付けすることによって、自分が偉くなったような錯覚を他人に与え、矮小な自己満足を得る。

 もちろん、そういう人達は、過去にもたくさんいただろう。
しかし、現代のかかえる病巣の深さは、そういった性根の浅はかさを肯定する風潮にこそあるのではないか。

 こういう風潮から、司馬遼太郎の言う「凛とした背骨」を持つ人が生まれることはない。
明治は遠くになりにけり というため息さえも、聞こえてくる。

  日本は滅ぶかもしれない、と、真剣に考えるべき時が来ているのかも知れない。


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