| 「武士という生き方」について その2.「武士道とは○○と見つけたり」 さて、いきなり問題です。表題の○○には一体何が入るでしょうか? まぁ、ここの常連の方々なら、「そりゃぁ、[死ぬ事]だろう。」と、言うと思います。 そう、「葉隠」ですね。 ただ、現実の武士が常に「葉隠」を紐解き、これを実践していたかと言いますと、少々疑問があります。 まず、第一に「葉隠」とは佐賀藩の内部でのみ流通していた本でその他の国では、ほとんど知られていませんでした。 また、第二に「葉隠」が佐賀藩で武士の必須教養と見なされる様になるのは江戸も中期以降であり、 書かれた頃にはまだ、常識とはなっていませんでした。 その一方で、「武士道」にもとる行為は厳しい処罰の対象となっていた、と言う現実があります。 たとえば、会津藩において、延宝二年(1674)秋田太左衛門という侍が、 「6年前に武士道にもとる行いをした」のではないかという理由で調べられた事があります。 実は、この時太左衛門は既に鬼籍に入っていまして、 我々から見れば、何を今更、と言う感じですが、跡継ぎの吉太夫にとっては、まさに一大事でした。 なぜなら、「其親御奉公未練の者は・・・跡式御立てなさるべき様之なし」 (武士道にもとる者のいた家は、相続を許さず廃絶する) というのが、会津藩の方針だったからです。 結果的には、特に武士道にもとるほどの事ではないと判断されましたが、 結果が出るまで吉太夫はさぞ、気がもめた事でしょう。 問題は、これほど厳しく遵守することを迫られていた「武士道」と言う物に、 どうも明確な基準があったように見えないということです。 再び、会津藩の例を見てみましょう。 享保七年(1722)のこと、赤羽源之丞は、 前々から妻と召使いの男が怪しいのではないかと疑っていましたが、ついに証拠の手紙を発見します。 で、激昂して妻を斬捨て、遺骸を引取りに来た義弟たちの前で、件の手紙を読み上げました。 この件に付いて、調査した目付達は以下の様な存寄(上申書)を提出しました。 @他にも仕方があろうに直ちに殺害したのは「上(かみ)を不重(おもんぜざる)仕方に候(藩を軽んじる処置である)」 A妻の弟達を呼び並み居る前で手紙を読み聞かせたのは「目前に恥辱を与え候致し方(ことさらに辱める振舞い)」であり、 武士に似つかわしくない。 B弟達も、これほどの目に会わされれば、「怨骨髄に徹し」姉の仇を討とうとするのが武士ではないか。 よって、双方とも処分するべきであろう。 ところが、この存寄を受けた家老達の評議の結果は、以下のようになりました。 @確かな証拠を見つけた上で成敗した事は上を軽んじているとはいえない。 逆に一々妻の不貞を上申するようでは 武士として「却て柔弱の咎逃れ難」い。 A手紙を読上げた行為も事情を説明するために行った事であるから「士に似合わざる仕方」ではない。 B姉が「婦道の罪」を犯したのは明らかなのだからここで姉の仇を討つのは道理を弁えない「理不尽」な行為であり、 おとなしく引き下がった弟達の行為は、「士たるの道欠き候」事は無い。 よって、双方とも処分する必要なし。 上告の結果逆転無罪になったような話ですが、それにしても驚くほど逆になっています。 まぁ実際には、どういう場面においてもちゃんとしていなければならない と言う形式を重視する「建前派」と厳しく処罰しても死人が生き返るわけではなし、 生きている方を大切にしようと言う「現実派」の対立、という文脈で解釈するべきなんでしょうが、 それにしても双方とも、事実関係の認識ではまったく対立する事無く、 「武士に似つかわしい」かどうかだけを問題にしている訳ですから、 それで正反対の結論が出てくる事は、 いかに、「武士らしくある事(武士道)」が解釈次第でどうにでもなるものであったかを物語っていると言えるでしょう。 ところがこの「武士道」に家の存続も、更には自分の命さえも懸かっていたわけですから、 さぞや大変であったろうと思います。 そう考えると、他人に認められるか否かはおいても、 「武士道とは[死ぬ事]と見つけたり」と自信を持って言えた「葉隠」の作者は武士としては幸せであったのでしょう。 |