「武士という生き方」について
その5.「あなたのお名前なんて〜の」


「おうおうおう!この桜吹雪が目に入らないか!」
「お、御奉行様、そんな大きな物が目に入ったらオオゴトでございますよ」
・・・
いきなり、ハズしてしまいましたが、ここで問題です。
この片肌脱いでりきみ返っている御奉行様の名前は何でしょう?
はい、そこの君!
え?遠山の金さん・・・?
不可!レポートを提出しなさい!
はい、次の君!
は?遠山金四郎?
う〜ん、可!
はい、次の君!
えー?遠山左衛門尉
いいねぇ、良!
はい、次の君!
えーと、遠山左衛門尉景元
よし!優だ。

と、言う訳で、遠山の金さんの本名は、「遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)」です。
ずいぶん長い名前ですが、どこで、どう切れるのでしょうか?
名字は?これはもちろん、「遠山」ですね。では、その後はどうなっているのでしょう?
実は「左衛門尉」「景元」共に名前です。詳しく言えば「左衛門尉」は名乗りで、「景元」は諱(いみな)と言います。
さて、それぞれの使い方ですが、名乗りとは名前の通り、自ら名乗り、また、呼びかけられるときの名前つまり、公の名前な訳です。
それに対して諱は、元服のときにつけて、普段は使われない私的な名前なのです。
元々は、中国から伝わった習慣で、例えば、「三国志」の 劉 備 玄徳 の「備」がそうですね。
この、諱と言うのは、実は、これが「本当の名前」と見なされていたので、
名前の持つ呪術性の影響を避けるために普段は諱を使わずに名乗りを使っていた訳です。

では、名乗りとはどういった物だったのでしょうか。
「左衛門尉」といえば、何だか役人の肩書きみたいですが、元々これは朝廷の役職名でした。
今で言えば警察庁の局長くらいでしょうか。
しかし、金さんは左衛門尉という肩書きを持っていた(任命された)訳ではないんで、
あくまで、この「左衛門尉」は金さんの名前です。
どういう事かと言うと、金さんの場合、元々は「金四郎」という名前だったんですが、
町奉行に任命される際に「左衛門尉」と改名したのです。

侍(特に大名、旗本及び大名の家臣のなかで大身の者)は、
その位置(例えば幕府における役職)に応じて官位(正一位とかいうアレです)を持っており、
その官位に対応する朝廷の役職名を名乗りとした訳です。
例えば、忠臣蔵では浅野「匠ノ守(建設大臣?)」が吉良「上野ノ介(千葉県副知事?)」に斬り付けましたが、
彼らは、それぞれ長矩(ながのり)、義央(よしなか)という諱をもっていました。

ところで、この「名乗り」というヤツですが、これは結構ややこしい物でした。
例えば、金さんの例でも分かるように、昇進等で官位が上がると、次々に変わって行きました。
「龍馬がゆく」の中で大久保一翁が、昇進の度に千葉さな子に
「今度は○○ノ介だよ」「今度は○○ノ守とお呼び」と、嬉しそうに語ったと言うエピソードが書かれています。
さらに、当時の知識階級の間では、何でも中国風がエラいと言うスノビズムがありまして、
名乗りを中国風に読替えることも流行りました。
例えば、武田晴信(信玄)の弟信繁は「左馬の介」でしたが、武田家中では「典厩殿」と呼ばれていました。
これは、「左馬の介」を馬屋の次官と解釈して、中国風に読み替えた物です。
この読み方で、一番有名なのは水戸「黄門」ですね。
あれは、どういう意味かと言いますと、助さんが「先の中納言」と言いますが、
水戸の藩主は代々中納言を名乗る事になっていました。
で黄門様(徳川光圀)は、隠居しましたから、「先の中納言」となります。
でこの中納言を唐の官制にあてはめますと、中書令(だったと思うんですが・・・)になります。
で、この中書令が引退しますと、元中書令である事を示すために、門を黄色く塗る事になっていた訳です。
そこから、元中書令を黄門と称するようになりまして、
これを日本に持ってきて「先の中納言」を黄門と呼ぶようになったわけです。

以前、掲示板で出た「勝安房守(かつあわのかみ)」とは、海舟のことですが、彼の諱は、「義邦」でした。
では、「海舟」とは何かと言いますと、これは「号」というもので、いまでいう「ペンネーム」みたいな物でしょうか。

と、言う訳で、当時の武士の名前は、名乗り、諱、号と大体3種類ありまして、非常にややこしくなっていました。
とくに、名乗りは、昇進で変わる上に、世襲の物まで有り、名乗りだけでは、何代目なのかが分からない事も有りました。
例えば、幕末に本格的な西洋式軍事技術を導入した江川太郎左衛門の諱は英竜(ひでたつ)ですが、
この太郎左衛門は、韮山代官の江川氏当主が代々世襲する名乗りだったので、
先祖の太郎左衛門と区別するには、「英竜」もしくは号の「旦庵(たんなん)」を使用します。

そんな訳で、名乗りは、役職等と密接につながり、
また、歴史を反映して、侍の教養の必須科目ともいえる内容を含んでいましたが、
幕末ともなると、官位に縁が無い下級御家人あたりでは、そんな知識はすっかり忘れられていったようです。
大政奉還後、多くの幕臣達が慶喜に付いて静岡に行きましたが、
その時に、幕臣達の教養を調べるために、漢字の読み書きのテストをしたんだそうです。
ところが、これが情けないくらい読めない。
たとえは、「掃部守(かもんのかみ)」が「はらいべのかみ」なんてのはマシなほうで、
「雅楽守(うたのかみ)」を「がらくたのかみ」と読むヤツまで出る始末で、
試験官達は、これでは幕府が瓦解したのもムリはない、と嘆いたそうです。

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