| 「武士という生き方」について その6.「日本で最初のテーマパーク!?」 まず、初めに問題です。旧東京市(ほぼ、現在の東京23区)内で、最も高い山はなんでしょう? まぁ、東京に住んでいてもなかなか分からないと思いますが、 答えは新宿区戸山町の戸山公園にある「箱根山と呼ばれる標高44.6メートルの山です。 それがどうした?と言われそうですが、 これより低い王子の飛鳥山(27.2メートル)他の代表的な山はほとんど、 自然の物(造成その他により変形はしていますが)なのに、 この箱根山は実は「築山」(庭園などに人工的に作られた山)なのです。 今日のテーマはこの「箱根山」とその周りでの話です。 箱根山は築山ですから、当然、庭園の中に有りました。 江戸時代、この一帯は、尾張藩江戸下屋敷(通称 戸山荘)でして、 その庭園の一部が、先ほどの戸山公園になっている訳です。 この、戸山荘は寛文11(1671)年136,000坪(44.9ヘクタール)の広大な屋敷として完成しました。 無茶苦茶に広い屋敷ですが、まさかそんなに大きな建物も建てられませんから、 当然そのほとんどが庭園となりました。 これくらい広いと、隅から隅まで池泉回遊式庭園にする訳にも行かず、 寺社や田畑、旧川越街道の一部まで中に含まれると言う、いわば江戸郊外をそのまま切り取ったような庭園でした。 で、その中央に20,000坪(6.6ヘクタール)の巨大な池を掘り、その土を盛り上げて造ったのが箱根山です。 本来、日本の庭園には色々な「遊び」が織り込まれていますが、 何しろ戸山荘位の規模になりますと、「遊び」のスケールも自ずから大きくなります。 例えば、人家を模した小建築を置くのは当時良く行われた「遊び」ですが、 戸山荘では、1・2軒ではなく、36軒の町屋を並べ、何と宿場街を再現していたのです。 最盛時には街道(当然作り物です)沿いに約140メートルにもわたる町並みが続き、 その両端には木戸が設けられていました。 で、この宿場には外郎(ういろう)屋(念のために言っておきますが、名古屋の羊羹のような菓子ではなく薬の一種です)が作られていまして、 当時、小田原宿には外郎の老舗「虎屋」がありました。 このことから、この町並みが小田原宿と呼ばれるようになり、その横の築山が(小田原の側の峠なので)箱根山となったようです。 以上のような規模で作られた小田原宿ですが、そこでは、一体なにが行われていたのでしょうか? 町並みのはずれに一枚の高札が立っていました。その条文を見てみましょう。 一、この町中において喧嘩口論これなきとき、番人はもちろん、町人早々に出会わず、双方を分けず、奉行所へ届けべからざること 一、この町内に押し買いは了見におよばざること 一、竹木の枝、キリシタンかたく停止のこと 一、落花狼藉、いかにも苦しきこと 一、人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと 一見して、二条目、四条目以外は高札の内容としてかなり変である事が分かります。 例えば一条目は、通常の高札に書いてあるべき事を一々逆にしています。 さらに三条目に至っては何とキリシタン禁令のパロディになっているのです! 随分と思い切った事を書いた物ですが、これらが、この庭園(特に宿場)の性質をよく現しています。 この宿場には、本陣、問屋、旅篭、米屋、酒屋、菓子屋等々上げるときりがないのでこれくらいにしますが、 街として必要な物は、すべて「作り物として」揃っていました。 つまり、この街は、街の機能をすべて揃えながら、世間の約束事から遊離した架空の街として存在していた訳です。 では、実際には、この街はどのように利用されていたのでしょうか? まず、普段はすべて雨戸を閉めていましたが、 例えば将軍(実際に家斉が訪れています)のような客人が来ると、雨戸を開け、埃を払って、 商店には商品(食品等は、わざわざ木で模型を作ってありました)を並べ、 職人の家には道具、材料どころか、木の削り屑に至るまで再現して、町人以外は全部揃えて客人を待ちます。 で、客人一行は町に入ると、町人に見られる事なく町人の生活を見て楽しむ事が出来た訳です。 興が乗ると、売り子の真似をするなど、結構羽目をはずす侍もいました。 まぁ、普段のタテマエ重視の堅苦しい生活の中でのストレスを解消する場となっていたようです。 ごく限られた人間しか入れなかったし、もちろん有料でもありませんでしたが、 現実を忘れて遊ぶ「架空の街」は日本で最初のテーマパークと呼ぶにふさわしい物であったろうと思います。 |