| 「武士という生き方」について その7.「ムカシは何をする人ぞ?」 さて、この講義も、思っていたより長く続きまして、 皆さんの「武士」観にも広がりが出て・・・きてないか(笑)。 で、今日は少し趣向を変えて(この前もこんな事を書いたような気もしますが・・・) 古(いにしえ)の武士について、考えてみましょう。 司馬遼太郎は、武士の起源を「武装農民である」と看破しましたが、 では、この武装農民達は、どのようにして、歴史の表舞台に登場してきたのでしょう。 9世紀末宇多天皇の時代に、御所の警護のために「滝口の武者(武士)」が設置されました。 これは、武士という物が日本の歴史で表舞台に登場して行くための、 重要なステップの一つと考えられており、日本史の教科書にも必ず載っています。 で、実際のところ、彼ら(滝口の武士)は一体何をしていたのでしょうか? まず、武士とは何か?と考えてみますと・・・ これはまず、「武」をもって「仕(士)える」者です。 ですから、滝口の武士達も、御所の警護という形で、「武をもって仕え」たわけです。 そんな事はあたりまえではないか、と言われそうですが、 どうもこの「武」の「使い方」が、我々の想像する使い方と一致しないようなのです。 例えば、寛弘5年(1008)内裏に強盗が侵入しまして、 女房が身包み剥がされると言う事件が起こっています。 ところが、滝口の武士が駆けつけたという事実はなく、更に、そのことで、処罰されてもいません。 どうも、彼らの「警護」と強盗事件は、関係ないと見なされていたようなのです。 さて、それでは一体「滝口の武士」は御所を「何に対して」警護していたのでしょう ? ここでヒントとなるのが、ちょっと、時代は下りますが、 源頼政(頼朝や木曾義仲に先立って、以仁王を担いで、平家討伐の軍を挙げた人ですね)が、 宮中を騒がす妖怪「鵺」を退治したという逸話です。 この時、頼政に要求されたのは、軍勢を集めて戦う具体的な「軍事力」ではなく、 「武」の達人である頼政個人の「武」という、抽象的な物であった事が伝えられています。 つまり、軍事力とは違う次元で、妖怪にも対抗できる一種の超能力のような「武」と言う物が評価されていた訳です。 この事から解るように、「武」力には一種の退魔性が期待されていた訳でして、 滝口の武士達は、その「武」をもって、そこに立っている事で、 目に見えない物の怪や、より抽象的な「穢れ」が侵入する事を防いでいたのでした。 このような考え方から見た抽象的な武力を「辟邪(へきじゃ)の武」と言います。 天皇とは、日本における最も神聖(清浄)な存在であり、その存在する位置が日本の中心となりますから、 ここから遠ざかるとその距離の分だけ、「穢れ」て行きます。 で、最も遠ざかった辺境(夷)が、最も「穢れ」た「邪(よこしま)」な者となり、 これを平定する武力は同時に「穢れ」を払う呪術的な能力でもあった訳です。 朝廷にとって、この「辟邪の武」の呪術性は、まさに「呪(まじな)い」として認識され、利用され続けました。 この事を、最も良く物語っているのが、歴代天皇・上皇がそれぞれ持っていた「守り刀」です。 どうせ、自分で振り回したり出来るわけは無いんで、(中には例外もいますが) ただ、持っているだけの、文字どおり「お守り」なんですが、 それだけに、「辟邪」の力をもっているとされる物が求められました。 で、何が、刀の「特殊な」能力の基準となるのかと言うと、「銘」(誰が作ったか)ではなく、「来歴」(誰が持っていたか)でして、 例えば「俵ノ藤太(藤原秀郷)」の刀、「鎮西八郎(源為朝)」の刀だから「辟邪」の力を持っている、と言う事になっていたようです。 ここでは、秀郷や為朝の「武」は、まるで、魔法の呪文扱いですね。 もっと、そのものズバリな扱いとしては、万寿2年に滝口の武士の三善惟孝(みよしこれたか)が、 本職の陰陽師(おんみょうじ)である中原恒盛(なかはら つねもり)と共に、魂(たま)呼びの儀式をさせられています。 ここでは、優れた「武」そのものが陰陽師の神通力と同等の「呪い」と見なされているわけです。 「武力」と「魔術」は、対立する物のようなイメージが有りますが、当時の朝廷では、ほとんど同じ物と思われていたわけです。 では、次に、当の武士達は、自分達の「武」をどのように考え、使用していたのでしょう? 軍事力としての「武士」が、歴史の表舞台に登場してくるのは、 奥州平定のための戦「前九年の役」「後三年の役」からである、と見て良いでしょう。 この内、前九年の役は、奥州の在地勢力である安倍氏が、 勢力拡大を目指して、朝廷の管理下にあった領地を侵食し始めた事により、 奥州の朝廷権力を回復するために「朝廷」が起こした戦であると言えます。 しかし、後三年の役は、安倍氏滅亡後の奥州を管理していた清原氏の内紛を平定すると言う口実で、起こされた物ですが、 朝廷から見れば、特に武力での制圧を必要とするほどの物ではなく、 そういう意味では、前九年の役と同列に扱うのは、少々無理があるようです。 では、後三年の役は、何のために起こされたのでしょう? それを知るためには、後三年の役の前後で何が変わったのかを見る必要が有ります。 我々は、漠然と、東国の源氏・西国の平氏と言うイメージを抱いています。 しかし、元々平氏のテリトリーは、そもそも、恒武平氏の初代である、 高望(たかもち)王(平望王)が東国に下ったときから、坂東を中心に形成されて行きました。 そのため、後に源頼朝が伊豆で挙兵したとき、 傘下に集まった、坂東武者の中でも、有力な一族(北条・三浦・千葉等)はみんな平氏の家系だったわけです。 つまり、もともと坂東は、平氏が支配する領域でした。 朝廷の東国征伐という形で行われた、前九年の役では、 源頼義率いる源氏軍団は、あくまで、朝廷の派遣軍に過ぎず、 結局一番得をしたのは頼義に協力した事で、奥州の支配権を手にした、清原氏でした。 で、その後、清原氏の内紛平定のために源義家が出陣します。 この時は、実は、朝廷の要求ではなく、義家自身の意志で出陣が行われ、 清原氏が征伐された後は、源氏の占領地のように扱われています。 つまり、公の軍事行動ではなく、私的ないわば縄張り争いの様な物だった訳です。 この時点で、義家軍は公認された軍事力ではないわけですから、 その戦いは、限りなくやくざの縄張り争いに近い物であるわけです。 すなわち、当時の社会体制の中では、武士(特に源氏)はやくざのような非合法な武力集団であり、 その行動もやくざ並みの物であったわけです。 その後、このやくざの縄張り争いが、日本の行く末を左右し、 その勝利者が、700年に渡って日本を支配する合法的支配階級に育って行った事を思うと、 なるほど「勝てば官軍」とは良く言った物だと思います。 |