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誰が何処で間違ったのか
今回のテーマは、『誰が何処で間違ったのか』です。
日米開戦に至った原因は、ごくおおざっぱに言えば、
陸軍を初めとする官僚組織が、『国益を損なってまで』自分達の組織の利益のみを図り続けた結果であると言えます。
具体的には、陸海軍や興亜院といった役所が省益のみを追求し、中国における侵略を積極的に推進していった結果、
アメリカのアジア政策と正面から対立する事となりました。
別にアメリカが正義だと言っているわけではないんですが、中国での行動が侵略であった事は否定できないわけで、
アメリカがその点を突いて日本を批難し、また石油の禁輸等の政策を実行すれば、理屈では対抗できません。
で、結局のところ、追いつめられた挙げ句に『逆切れして』アメリカに対して戦争を仕掛ける他は無くなってしまったわけです。
つまり、ハルノートが出た時点では、日本は既にまともな国家としての体をなしていなかったわけです。
では、これ程の惨状を呈した理由は、一体なんだったのか、
具体的には、誰が何処で道を間違えたのかという点を考えてみたいと思います。
ここで、上記のような軍部(やその他の役所)の暴走『が』悪いと考えるのは、あまり意味が無いと言って良いでしょう。
官僚システムというものは、どうしたって表向きは『国益』と称しながら『組織の利益』を追求しつつ肥大化して行くものだからです。
これは、日本だけの問題ではなく、官僚機構と言う物自体がそういう物なのでして、
政治学では、この現象をパーキンソンの法則と呼びます。
しかし、官僚機構とは常に監視を必要とするものであるがゆえに、『市民の代表者である政治家』が『適切な』監視を行っている、
つまり『タガ』をはめている限りは、そうそう暴走したりはしないんですね。
ところが、戦前の日本があのような致命的な結果に至ってしまった原因は、この『タガ』が外れてしまったから、と言えるのです。
それは、1930年のことでした。
この年は、日米英他の列強が軍備増強の負担を軽減するために、
航空母艦や、駆逐艦などの軍艦の保有を制限しようというロンドン条約が締結された年でした。
日本経済は、不相応な軍備のために破綻寸前であったので、この事は海軍以外では多いに喜ばれたのですが、
海軍は戦力を削減されるわけですから、面白くありません。
ここに、北 一輝(きた いっき)という人物が出てきます。
彼は、在野の右翼活動家でして、軍内部に多くの賛同者を得ていました。
彼は「憲法(明治憲法)の第11条に
『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とあるのだから、
内閣ごときが軍の装備を勝手に削減するのは恐れ多くも統帥大権(とうすいたいけん)の干犯(かんぱん)である!」と言い出しました。
いわゆる『統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)』問題と言うやつです。
この問題は、明治憲法の欠陥として語られる事が多いですが、本当にそうでしょうか?
実は、軍に対する権限は『軍令(ぐんれい)』と『軍政(ぐんせい)』の2種類に分けられます。
軍令とは、軍を指揮し命令を出して戦わせる事で、この軍令権は政治に従属してはいけないと考えられています。
戦争の最中に、戦闘自体に政治が口を出したために、効果的に作戦を実行する事ができず戦争に負けた例は沢山有ります。
ですから、軍令は軍の指揮機構の専管事項であり、政治の介入は許されない事になっているのです。
これに対し軍政とは、軍の予算をどのようにするか、とか戦争をするかしないか、とか軍隊の指揮以外の全てであると考えて良いでしょう。
例えば、軍の予算が決まれば、揃えられる人数や、与えれられる装備が決まり、軍の編成そのものも決まります。
ですから、軍は少しでも多くの予算を取ろうとするわけで、
予算を決める権利そのものを軍に与えてしまえば、軍は際限無く肥大化してしまいます。
また、『軍組織』が戦争を望むことはそれほど多くないかもしれませんが、
軍人『個人』としては手柄を求めて戦争を望む事は充分に有り得ます。
そこで、戦争を始める権利を軍に与えてしまえば、不要不急の戦争が始まる恐れは充分に有ります。
現に満州事変〜日中戦争の流れは、手柄を欲しがる軍人達が勝手に不要不急の戦争を次々と引き起こして言った物でした。
プロイセンの軍人であったカール・フォン・クラウゼヴィッツはその著書『戦争論』のなかで、
「戦争とは形を変えた『外交の継続』である」と述べていますし、
また第一次大戦のときフランスを指導した宰相クレマンソーは「戦争は、軍人に任せるにはあまりにも『重大すぎる』」と述べています。
この様に、政府の専管事項である外交を軍部が(鉄と血で)勝手に行う事は、国家滅亡の第一段階であると言えるでしょう。
ですから、普通の国家では、『軍令』は軍部の専管事項であり、政府の介入を認めないが、
『軍政』は政府の専管事項であり、軍部が容喙してはいけない、というのが常識なのです。
で、先に上げた明治憲法の第11条ですが、
ここでいう『統帥権』として政府の介入を許さない天皇の権限とは『軍令権』の事であり、『軍政権』は含まれない、
とするのがごく当たり前な解釈なんですが、
北はこの軍令権と軍政権を(おそらく故意に)混同して、『統帥権』という言葉にまとめて見せたわけです。
で、権限の拡大を望む軍部は、この議論に喜んで乗りました。
つまり、『統帥権干犯』議論とは、憲法の欠陥を突いたものではなく、明治憲法を『曲解して』ムリに起こした議論だったわけです。
軍と言うのは、国家で最大の暴力装置ですから、もしこれが暴走を始めたら、力で止める事は不可能です。
ですから、軍部の暴走を避けるためには、政府が予算を握っておく他はないのですが、
この統帥権干犯議論が公に通るようになってしまったために、軍の暴走を食い止める手段が無くなってしまったわけです。
この事から解るように、初めに言った、『どこで間違ったのか』、はつまりここ、
すなわちロンドン条約締結の際に上記の『間違った憲法解釈』がまかり通ってしまった事なんです。
ではこの時に『誰が間違った』のでしょうか?
実は、私は北一輝が間違ったとは思っておりません。
では、誰なのかといいますと、ちょっと意外に思われるかもしれませんが、実は犬養
毅(いぬかい つよし)なのです。
犬養毅といえば、尾崎行雄とならび『憲政の神様』と呼ばれ、議会制民主主義の擁護者として知られています。
その犬養がなぜ?と疑問に思われるかもしれませんね。
実は、これには当時の政治機構の不備が絡んでいます。
当時の帝国議会では、政友会と民政党の2大保守政党がしのぎを削っていました。
ここで問題となるのは、当時の憲法の規定では、首相は現在のように国会の指名で決まるのではなく、
天皇が任命すると言う事だけが決まっていたのです。
そこで、首相になるには、議会の多数派になろうとなるまいと、とにかく天皇に任命を受けなければなりません。
逆に言えば、任命さえ受ける事ができれば、議会では少数派であっても首相になれるわけです。
また、当時は内務省という内政を一手に引き受ける非常に強力な役所が有りまして、選挙管理も警察もこの内務省の管轄でした。
ですから、首相になる事ができれば、自党から内務大臣も出せるわけで、
その上で解散・総選挙を行えば、内務大臣権限で自党の候補に有利な選挙を行い、
さらには相手党の候補だけに選挙管理法を殊更に厳しく適用するといった、極めて効率的な選挙妨害まがいの事が可能でした。
つまり、たとえ少数派でも首相になってしまえば、無理矢理に選挙で勝って、多数派になる事も可能だったわけです。
では、どうやって首相に任命してもらうのでしょうか?
明治憲法の規定では、首相の任命権は天皇にある、としか書いてありません。
つまり、天皇一人の考えで、誰を任命しても良いわけですが、
少なくとも昭和帝は明治帝のような絶対君主ではなく、立憲君主を目指していたので、
自分一人で決めるという独裁的な方法をできるだけ避けようとしました。
具体的には、当時、天皇の諮問機関として設けられていた、元老院と言う機構に諮問したのです。
この機関は元々明治維新の元勲達が第一線を退いた後に元老と呼ばれて天皇の諮問に答えていたのが始まりです。
その後も、国家に多大な貢献をしたとされる政治家が引退すると、元老院に入りました。
で、何か問題が有って、首相が辞任すれば、天皇は元老院に次期首相候補を諮問します。
それに対して元老院は協議の上、首相候補として適当と思われる人名を奏上するわけです。
昭和帝は、上記のように独裁的になる事を嫌ったので、基本的には奏上された人選を受け入れたようです。
ですから、実質的には元老院が首相を決定するんですが、制度上はあくまでも天皇の『諮問機関』に過ぎませんから、
首相任命に関わる責任は全て諮問を受け入れた天皇自身に『のみ』ある訳です。
となると、まったく無責任に人選しても良さそうなモンですが、
彼らは基本的には国家の重責を担ってきた人たちですので、そんなにいい加減な事はできません。
ましてや、人選が間違っていたら、その責任は天皇が取らなければならないわけですから、
自分の責任で人選するとき以上に慎重になります。
で、結局、辞任した(つまり何か失敗した)側の政党を一旦退けて、
反対政党から指名しよう・・・という無難な線に落ち着く事が多かったわけです。
そこで野党としては、内閣の非を(ごく小さな物でも)取り上げて議会で大騒ぎすれば、
首相は『大騒ぎになった事自体』の責任が問われるわけで、
上手くすれば辞任に追い込める−>次は自党から首相が出る、と期待するわけです。
こうして、両党共、有権者に政策を地道に訴えて多数議席の獲得を目指すよりも、
手っ取り早く政府与党を声高に批難して退陣に追い込もうと議会でのあら捜しに奔走する事になりました。
戦前の日本において、ついに議会制民主主義が定着しなかった大きな原因の一つがここにあります。
で、問題のロンドン会議のときは、民政党でライオン宰相と綽名された浜口
雄幸(はまぐち おさち)が首相でした。
浜口首相の公約であった財政再建と幣原 喜重郎(しではら
きじゅうろう)外相の理念である国際協調を共に充足する政策こそが、
ロンドン条約締結だったわけです。
ですから、このロンドン条約の締結を阻止すれば浜口内閣は退陣を余儀なくされるわけで、
犬養率いる政友会はこの点に目を付けました。
つまり、ロンドン条約の批准を妨害しようと考えたのです。
というのも、交渉国の中でも主要国家のひとつである日本で条約の批准ができなければ、ロンドン条約は発効しませんので、
条約の締結自体が無効になってしまいますから、民政党の浜口内閣にとっては致命的な失点となり、退陣する他なくなるわけです。
ただし、もしそうなれば、国際的な軍縮の盛り上がりに対して、日本が国内事情で一方的に水を刺す事になりますから、
日本が国際的批難を浴び、
さらには孤立する(こんな重要な条約を締結しておきながら批准しないとなると、どこの国も信用してくれなくなる)のは必至なんですが、
政権の欲しい政友会は、あえて、この挙に踏み切りました。
国益よりも、党利党略を優先させたわけです。
中心となって自体を進めたのは、幹事長の森つとむ(りっしんべんに各)や鳩山一郎でしたが、勿論総裁の犬養も積極的に乗りました。
といっても、軍縮条約の内容は、日本が経済上の苦境から抜け出すきっかけになるかもしれないほどのもので、
削減される側の海軍の中にすら、山本五十六・堀悌吉などのように国家のために受け入れるべき、
と考え行動する人たちも居るほど必要とされているものでしたから、「内容が悪い」と言う批難はできません。
また、この時元老院と同じ様に、天皇の諮問機関として枢密院(すうみついん)という機関がありました。
というか、実は天皇の諮問機関としては、こちらの方が正式なんで、
元老院はただ単に『元老』という称号を持った人たちの集まりに過ぎなかったとも言えます。
ところが首相任命の経緯等を見ていますと、
正式な諮問機関である枢密院よりも、むしろ非公式な集まりである元老院の方が信頼されていたような節もありまして、
こうなると当然対立してしまいます。
元老側が、議会中心の政策に理解を示すなら、枢密院は反議会的な立場を明確にします。
で、政党内閣が嫌いな枢密院の目には、憲政上の常識的行為であるものが、重大な越権行為に見えるわけで、
また、反議会・反民主主義と言う点で、枢密院には上記の北一輝と中の良い議員が多く居ました。
そこで、枢密院と政友会は手を組み、あの北一輝の統帥権干犯論に乗っかって「形式が悪い!」と叫んだわけです。
結局ロンドン条約自体は、天皇の「条約を潰してはならない!」と言う意志に基づいて、浜口首相が強行突破的に批准させました。
政友会は党利党略のために、無謀な横車を押して、大騒ぎした挙げ句の果てに、面目を潰すという、
まさに醜態を晒してしまったわけですが、
この時、朝日新聞は
「枢密院の横車に急いで飛び乗って、憲政のレールを外れて一緒に転落したのであるから笑止というも愚かなり」
と酷評しています。
ところが後から見れば、これはただ単に、政友会が面目を潰しただけでなく、
日本と言う国家にとって、まさに『とり返しのつかない一歩』となってしまったのでした。
なぜなら、上に書いたように、この理論がまかり通ってしまえば、事実上『軍』の行動を規制する事が不可能になるわけで、
少なくとも近代国家がとるべき解釈ではなかったのです。
とはいえ、ただの在野の右翼活動家である北一輝や、この理論で一方的に得をする立場にある軍、
そして議会制民主主義の波に取り残された集団である枢密院がいくら提唱しても相手にされまるはずが無いのですが、
なんと天下の大政党である政友会が、この件を国会の場で派手にぶち上げる事で、堂々の『お墨付き』を与えてしまったわけです。
この後、満州事変・上海事変を経て満州国の建国へと軍部は暴走を続けて行きますが、
この暴走は全て『統帥権』の名の元に正当化されてしまいました。
そして、皮肉な事に犬養自身が、軍部の暴走により射殺(5.15事件)されてしまったのでした。
その後も軍部の暴走は止まず、ついに2.26事件に至って、軍部に逆らえば命が無い、と言う事を思い知らされた政治家達は、
軍部及び、これと結託して省益を追求する官僚達に迎合するようになって行きます。
ついには、泥沼化した日中戦争に関して、1940年に斎藤隆夫議員が勇気を振り絞って軍部の責任を追及したところ、
みずから国家の主人であるかのごとく思いあがった陸軍が、『国会で軍のあり方について議論しようとした』という理由で、
処分せよ、と議会に対して詰め寄るに至りました。
もはや、彼ら軍人・官僚にとっては、納税者である国民も、その代表である議会も、
自分達の欲望(出世したい、勲章が欲しい)に奉仕する『しもべ』に過ぎないのであり、
「しもべの分際でご主人様を批判するとは何事であるか!」という意識をあからさまに示すに至ったわけです。
そしてあきれた事に、帝国議会はこのとおりの理由で、斎藤議員を除名してしまいます。
自らの手で、国家の主人に祭り上げてしまった軍に対して、みずからの意志でひざまずき、靴をなめたわけです。
後は、もう説明する必要もないでしょう。
最早政治は只の手続以上の物では無くなり、
軍部の求めるままに国際的な孤立の道をひた走った末に、300万人を越える同胞を死なせてしまいました。
この結果の責任を犬養に負わせるのは、
確かに妥当とは言えないと思います(ロンドン条約の時点でこの結果が予測できたならそれこそ『神様』です)。
とはいえ、もしあの時点で政友会の倒閣運動が成功していれば、
日本は史実よりも5年も早く国際的孤立を余儀なくされ、国家財政も破綻しかねなかったわけで、
実際のところ、政友会が与党だったとしても、条約締結以外に選択肢は無かったわけです。
となれば、国家にとって必要な事をしたのにそれを批難した、
しかもそれは、明確に国益を損なう選択であった、という時点で、やはり犬養の見識が問われるべきでしょう。
『憲政の神様』といわれた犬養ほどの人物ですら、この過ちを犯してしまったという事は、
戦前の議会制民主主義を目指したはずのシステムに、重大な構造的欠陥があった事を示しているのではないかと考えます。 |