江戸の結婚生活

大分御無沙汰しておりましたが、久しぶりに、江戸の生活についてみてみましょう。
今回のテーマは、武士から離れまして、江戸の結婚生活について考えます。
ちなみに今回の底本は「江戸の花嫁」(森下みさ子・中公新書)です。

まず、時代劇に出てくる結婚生活関連の話としては有名な「三行半(みくだりはん)」
が有ります。江戸時代の夫は、妻が気に入らなければこの三行半を書いて渡した”だけ”で
離婚が出来たので、妻の立場は誠に心細い物であった・・・てな具合に女性の立場の弱さの
象徴の様に語られる事が多いですが、本当にそうだったのでしょうか?
まず、誰でも名前は知っているけれども見た事はまず無いであろう三行半とはどんな書面だったのか
を見てみましょう。
例えば、以下のように書かれました。
「此度不都合儀此有候故(このたびふつごうのぎこれありそうろうゆえ)
其方離縁申付可候間(そのほうりえんもうしつくべきそうろうあいだ)
他所有縁不苦候(よそにてえんあるもくるしからずそうろう)
依件如(よってくだんのごとし)」
意味は、「不都合な事になったので離婚するから、他所で再婚してもいいよ。
まぁそういうこと。」
といったところでしょうか。
これを見れば分かるように、内容は、離婚宣言と言うより、再婚許可証と言った方が近いでしょう。
つまり、離婚する際には(元)夫として、相手を「妻」という身分から開放してやる為の
証明書を書く義務が有った訳です。
この辺の事情を表しているのが「去り状に 無筆(むひつ)は鎌と 椀を書き(俳風柳多留(はいふうやなぎだる))」
という川柳です。つまり無筆の(字が書けない)夫は去り状に鎌(かま)と椀(わん)の絵を描いて、
「(再婚しても)かまわん」という意志表示としたのです。
ここでは明らかに再婚の許可に重点が置かれています。

しかし、自ら望んで開放されるのであれば、有りがたい証明書でしょうが、離婚を望まない妻であればやはり、
受け入れがたい物が有ります。
この場合は、妻の身分は保証されなかったのでしょうか?
実は、現代でもそうですが、結婚に際してはたいていの場合「持参金」のやりとりが有りました。
持参金とは、読んで字の如しで妻が持参する財産(お金)のことでして、結婚によって夫の
財産となるのですが、夫の都合で離縁するとなれば全額返済する義務が有りました。
金額は夫や妻の階級によって様々ですが、50両・100両と言った金額が割と当たり前に行き来していた
ようです。
但し、引く手数多な美人であれば持参金が少々少なくても・・・とか家事全般がまるでダメなので
もう少しつけてもらわないと・・・とか様々な要因で上下したようです。
この辺は、持参金の額で婚家での待遇が変わる事も有り、かなり交渉には力が入っていたようです。
これを極限まで突き詰めるとヘロドトスの「古代史」に出てくるバビロニアの花嫁市場になります。
結婚適齢期の娘達を国家が一括してまとめ、まず、第一部で美人や織物などの特技をもった女性をセリに
掛けて、最も高い金額を付けた独身男性に買い取らせ、その売上げを第2部の不美人やその他様々な問題の
ある女性に持参金として付ける逆セリを行う(最も安い金額を付けた男にその金額の持参金付きで結婚させる)
と言う(女性の人権を考えなければ)それなりに合理的な制度でした。
残念ながら、ここには一方の当事者たる女性の意見は全く反映されませんが、双方の親と仲人だけで決める
日本の制度よりは少なくとも公明正大に行われるだけマシだったかもしれません。

いずれにせよ、夫の側から離縁するためにはこの持参金は、「全額」返済する義務が有りまして、これ無しで
離縁する事は許されませんでした。
これは中々大変だった様です。
これだけまとまった金額ですと、ただそのまま手元においておく事はなかなかできません。大抵何かに使って
しまっているので、慌ててかき集めるのも一苦労でした。
また、更に話をややこしくしている事情を表す「去る時は 九十両では すまぬ也(俳風柳多留)」という川柳が
あります。
これはつまり、結婚する時に持参金は100両もらっているんですが、そのうち1割(10両)を仲人に礼金
として支払っている(当時は持参金の1割が仲人料の相場でした)ため、自分としては90両しか受け取っていない
のに、離婚するなら、その分も含めて返済しなくてはならない、というボヤキなわけです。
「万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)」というお話の中には17年間で23回も結婚・離婚を繰り返し、この差額や
その他の入り用で身代を潰した男のエピソードが出てきます。
これは勿論「お話ですから、このとおりの事実が有った訳ではないんでしょうが、少なくとも(夫の側からの)離婚は
少なからず夫に経済的な打撃を与える物で、夫としてもそう簡単に離縁に踏み切れない歯止めとなっていたことが読み取れます。
また、触れ書き等で明文化はされていませんでしたが、嫁入り道具も妻の固有財産と見なされていたので、そっくり返すのが
当時の習慣でした。
当たり前のような気がしますが、これがまた大変で、「去状(さりじょう)を書くうち質を受けにやり(俳風柳多留)」という
川柳があります。
今のようにローンなんかは無い時代ですから、金が無くなれば家財道具を質に入れて当座をしのぐのが当たり前
で、特に見栄えの良い嫁入り道具などは真っ先に質入れされていますから、この借金も何とかして工面しなければなりません。
ここで簡単に質の請出しが出来る余裕が有るなら、そもそも質入れなんかしない訳ですから、これも夫からの一方的な離婚
に対する歯止めとなっていたようです。

こういう消極的な形では有りますが、確かに妻の「身分保証」の制度は存在していた訳です。
ここまでで、夫の都合で離婚する場合ばかりを述べてきましたが、妻の側から離縁を望む場合はどうだったのでしょうか?
元禄年間には次のような御触れが出されています。
「夫之方より妻に暇(いとま)とらせ候はば、持参金相返可申(あいかえしもうすべく)候、
養子又は、妻女房より暇取(いとまとり)候はば持参金は相対次第可任由可申(あいたいしだいまかすべくもうすべき)候事」
意味は、「夫から妻を離婚しようとする時は持参金は返しなさい。妻から離婚を言い出した時は持参金は話し合いで決めなさい
(必ずしも返さなくても良い)」と言ったところです。
ですから、妻からの要求で夫が離婚に同意する場合は、妻がこれらの財産権を放棄したと見なされるので、夫には返済の義務が
有りませんでした。
つまり、こういった財産権を全て放棄する覚悟が有れば、妻からの離縁も可能であった訳です。ただし、それでも夫が三行半を
書く(離縁する)事を拒んだら、話は少々ややこしくなりますが、その場合でも、妻にはまだ最後の手段が残されていました。
それは「先ぐりに 去状のくる まつがおか(俳風柳多留)」と言いまして鎌倉松が岡の東慶寺(縁切り寺として知られています)
に一定期間逃げ込んでいれば、夫は去り状を書かなくてはならない事になっていました。
これを見ますと、夫であれ妻であれ、どちらか一方の意志で離婚する事は可能であり、それによる経済的損害は、意思表示をした
側が負う事になっていた訳で、中々合理的に出来ていました。

ただし、これまで見てきたように、結構な額の財産が絡んできますから、どちらかが離縁を望む場合でも、出来るだけ相手側に
言い出させようと考える物でして、例えば、夫の側では、妻にことさら辛く当たり、遊び歩いて家を省みないような行動が良く
取られました。もっとも、離縁などまるで考えないでもこういう行動に出る夫は居たようですが。
で、妻側の対抗手段として井原西鶴は
「朝寝して髪結(かみゆわ)ず、気がつきて立ぐらみがするとて、昼も高枕して物いはず・・・中略・・・三日に一度づつかかさま見舞い
といふて帰れば・・・(西鶴織留)」
と「男に飽かるる仕掛」を説明して、これさえ実行すれば夫の方から喜んで去り状を書いてくれるはず・・・と説きます。
つまり、妻としてのたしなみを捨て、家事もせず、頻繁に実家に遊びに行って家を顧みない行動をとる事で、夫にガマンして結婚生活を
続ける位なら財産を捨ててでも離縁する方がマシ、と思わせようと言う訳です。
まさに虚々実々の駆け引きが行われていたと言えそうです。
何だか、結婚生活の話と言いながら、いきなり離婚から入るのもナンでは有りますが、時代劇による知識では、この辺が一番誤解される
事が多いようなので、今回はこのテーマにしてみました。
次回は、結婚の初まりである「お見合い」について考えてみましょう。


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